まじめなブログ

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「分ける」こと

 理性の働きのひとつに、あるひとつの事物をほかの事物から区別するというのがあるとする考え方がある。たしかカントが純粋理性批判でそんな話をしていたように記憶している。 

 子どもらと授業を通してやりとしていて感じることを挙げる。私はいま、10~12歳の小学生、それも中学受験を、程度の強弱はあれど志す子どもたちを相手に授業をしている。そこで顕著に感じていることで、しかもひとつの「学力」の正体だと感じていることがある。それは、カントのいう理性の働きを存分に発揮できるか否かという点である。

 例を挙げよう。大人からすれば言うまでもない例だ。

①私は彼にひどいことを言った。

②私は彼にひといことを言ってしまった。

 「~してしまう」という表現は、膠着言語たる日本語らしい言い方だ。末尾において文意をがらりと変えてしまう。後悔の意味合いが加わったのはおそらく現代か、早くとも近代からだと思うのだが、もともとは物事の完了を表す「しまひ(仕舞い)」からきているのだと思う。たぶん、自分は意図していなかったが、こんな結末を迎えてしまった。とか、或いはいつの間にかに終わってしまった。とか、そんな意味合いが派生していまのような用法になっているのだろう。

 話を戻す。これは、本当なのだが、いわゆる「できない」子どもたちは、こういう細部の表現の違いや、発話者の意図に気づくことができない。よしんば気づくことができても、うまく説明することができない(ここでうまく説明する、というのは、たとえば本当はしたくなかったのに……というような、発話者の意図しない意図みたいなものに触れられるか否かを意味する)。

 こういうことにはじまって、「できない」子どもたちは違いや差に疎い。それは、もっと大きくとらえると、「自分とあの子は違う」という他者意識にまで遡るものだ。競争意識の強い子や、セルフマネジメントの能力に優れている子は「あいつにあって自分にないもの」や、「目標を達成するにあたって、自分に足りないもの」を認識している。それは、源泉をたどれば差異意識そのものだろう。

 だから、一昔前のCMのコピーではないが、「違いがわかる」というのは、子どもの学力の優劣の源泉ともいえる、大切な要素であると思うのである。では、それが幼児教育の中で身につくか否かがどう決まるのかについては、正直いまいちイメージがつかない。間違い探しで脳トレをすればいいのか、といえばそんな単純なものでもないと思う。が、おそらく、親が日常的にモノとモノの差を評しているかどうかは大きい。たとえば食べ物の味でもいいし、芸能人の整形前後の顔でもいい。とにかく、微妙な差に眼がいくかどうかが決め手なのではないかと思う。知力や学力が遺伝が生理学的な要素によるかには疑問がある。影響があるとすればミームだろう。親が普段から「違いがわかる」ように振舞っていれば、自然と子どもは違いに気づき、自分を高めようとしたり、学的な興味を持ちうるものだ。

 万人は平等だ。たしかに。しかしそれは基本的人権においてである。これを拡大解釈し、万人が没個性的な集団であるととらえてはならない。人と人は違う。しかして、それはあるひとつの基準に対して「足りる足りない」ではないのだ。平等だが、違い、皆が尊重されるべきであると子に教えられるのは親だけである。